野尻抱影著
『星の方言集 日本の星』(中央公論社)
に興味深い記述がある。
秩父吉田町の吉田風土記によれば
同地 城峯山は
将門が藤原秀郷と戦った古戦場であり
「そちらに熊は出ますか?」
と問われると返答に困る‥‥
出るか/出ないか
熊にたずねてみるほかない。
それだから
「この山には居ます」
「熊も生息しています」と答える
この地でもかねてから
狩猟を介した食糧源でもあった
崖淵の巣穴まで
追い詰めて
仕留め方を間違えれば
穴から引き出してこれない
雲取山荘の前身である
【武州雲取小屋】は、
戦中・戦後に一階/二階建に拡張され
その後、“雲取山荘”と改称。
工事は1928(昭和三)年6〜7月
(実用化は8月上旬あたりか)
秩父鉄道(株)が新設を目的に
営林署と協議し、
主務は旅客課主任 吉田卯吉(浩堂)
(吉田/塚本閣治/町田立穂は
奥秩父の啓蒙先覚者トリオ)
工事請負は、大滝村大血川住民
渡場・沖 の両集落から
大陽寺と三峯社に関する伝え(5)私考
大陽寺と畠山重忠にまつわる話に触れたが
史実に基づくものではない。
第一にまず、時系列が正確でない。
だが重忠伝説は奥多摩・奥武蔵に
広く多様に残されてきた。
たとえ時代をすり替えても
ある時点でまた
反芻し、反復する
そのような歴史の地下水脈を
掘り当てる様な‥‥
大血川域からも考えてみたい
現地図上には、
記載されてないが
大滝村誌(該当文書)では
“大血川山
所在 村ノ南部
形状孤立シテ
南ハ白岩山ニ連リ
西ハ大研山ニ接シ
北ハ大血川ヲ巡リ
東ハ同郡日野山二連ナリ
高サ三百丈 ”
なる山があり
三百丈≒909m であるから
地図と記載から考えられる位置は
907mのピーク地点である。
(文中、日野山は
大陽寺大日向山をさすだろう)
![]() |
| 大血川山 907m |
某登山アプリによる
歴代ユーザーの辿った軌跡が
ルートマッピング化される
機能があり
これを駆使すると、
大血川集落[渡場]の対岸
上記 大血川山(および向沢)
の周辺からは
妙法ヶ岳(三峰奥宮)、霧藻ヶ峰、大陽寺
へ向かう旧山道があるようだ
![]() |
| 渡場集落(◯)対岸から伸びる各ルート |
![]() |
| 橙色マーカーの濃さは踏んだ数による |
かつて実際に大血川はじめとする
現地民ポーター達(歩荷)が
水や食料の物資を登り運んだルートと考えられる
↓ 大血川山周辺 紅葉初期
大陽寺と三峯社に関する伝え(3)
![]() |
| 明治初期 大滝〜三峰 地形概図 |
さらに明治初期発行の
『三峯大観』に
“此の旧記に残れる程、
昔から山上の水の不足は甚だしかった
人増せば水増すとやらん、
近年登拝者の劇増するにつけ、
使用水量の増加も俄かに増して六ヶ月間に、
人夫の肩に背負はれて来る水量が
約四千五百石 (汽缶に寄らざる分)
運搬費二百四十九圓 九十一銭を
計算したものが最近の決算額である”
と記されるが
中腹 三峰地区の井戸から
(数軒ずつ回り番の)運搬役によって
毎日運ばれたという。
その際、“水背負樽(みずしょいだる)”
なる道具を用いたようだ。
伝説上、
大陽寺と水源と引き換えに得た
参拝客ではあるが‥
その参拝客は、
いわゆる三峰講であり
飲み水、風呂、食炊事、洗濯
彼らをもてなすに大量の水を要したはずだ。
ーーーーーーーーーーーーー
文政年(1818〜30頃)
加藤曳尾庵による随筆
『我衣』(わがころも)に
三峰を訪れた際の狂歌
“秩父 三峰辺に
多き物の歌を詠る
雲霧に 大石小石 水 かいこ
蚤 蝿 峠 仏桑の木
少なき物を詠める
泊宿 酒と馬駕籠 よい女 平地にあんま
魚 四文銭”
とあるものの、
神社にかぎっては水が
最も無きものであった。
これほどまで水源から
水を得づらい立地条件が
なぜ、集落ひいては本社を
形作るに至ったのか。
ときに信仰心の肥大化は、
人の生活条件をも
いとも容易に跳躍するのだろうか。
(つづく)