大陽寺と三峯社に関する伝え(3)
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| 明治初期 大滝〜三峰 地形概図 |
さらに明治初期発行の
『三峯大観』に
“此の旧記に残れる程、
昔から山上の水の不足は甚だしかった
人増せば水増すとやらん、
近年登拝者の劇増するにつけ、
使用水量の増加も俄かに増して六ヶ月間に、
人夫の肩に背負はれて来る水量が
約四千五百石 (汽缶に寄らざる分)
運搬費二百四十九圓 九十一銭を
計算したものが最近の決算額である”
と記されるが
中腹 三峰地区の井戸から
(数軒ずつ回り番の)運搬役によって
毎日運ばれたという。
その際、水背負樽(みずしょいだる)
なる道具を用いたようだ。
伝説上、
大陽寺と水源と引き換えに得た
参拝客ではあるが‥
その参拝客は、
いわゆる三峰講であり
飲み水、風呂、食炊事、洗濯
彼らをもてなすに大量の水を要したはずだ。
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文政年(1818〜30頃)
加藤曳尾庵による随筆
『我衣』(わがころも)に
三峰を訪れた際の狂歌
“秩父 三峰辺に
多き物の歌を詠る
雲霧に 大石小石 水 かいこ
蚤 蝿 峠 仏桑の木
少なき物を詠める
泊宿 酒と馬駕籠 よい女 平地にあんま
魚 四文銭”
とあるものの、
神社にかぎっては水が
最も無きものであった。
これほどまで水源から
水を得づらい立地条件が
なぜ、集落ひいては本社を
形作るに至ったのか。
ときに信仰心の肥大化は、
人の生活条件をも
いとも容易に跳躍するのだろうか。
(つづく)
