2026-03-14

“世にも奇妙な” 大血川 9


開基 髭僧にまつわる

大陽寺伝に以下のものがある。


髭僧大師


大血川 大日向山


幽趣の地に選んだ髭僧の前に


ある日、蛇身異形が現れ



“我は、秩父惣社妙見の宮


業力によって蛇身となっているが


あなたの法力によってこの身を脱したい。



血脈をこうむるからには、


累年秩父郡中より

春秋の初尾の殻を供し


この霊場を守るであろう”




‥‥主に妙見宮を奉じてきた


秩父武士団の禅宗帰依を

示唆するものとも言える。



要するに、

修験山伏にはじまる


急斜山岳帯での


諸々の信仰の足跡が記され


やがて、

札所観音霊場めぐりに

見られるような


大衆信仰へと

カジュアルダウンさせながら

盆地全体を広まっていったのだろう。



(34ある札所のほとんどが

禅庵の管理でもある)



『新編武蔵風土記』より  大陽寺境内図


2026-03-11

“世にも奇妙な” 大血川 8


秩父各地の
習俗の原型は以下であろう。


①部落・村落の山を差し

②男女の隔てなく

③飲食し、声(音)を発する

④元日 春・秋の二期性をとる







‥‥さて、大血川集落から


山道を上ると、大陽寺へ着く



『新編武蔵風土記』より 大陽寺の図




江戸期(文化〜天保)において


十返舎一九『秩父順礼道中記』(※)に

大陽寺について記される



“ひげそう”とは、髭僧大師をさし‥‥



十返舎一九『秩父順礼道中記』より



さかのぼること鎌倉末期に


この開基は、


日原より峠を越え


ここに辿り着いたそうな。






大陽寺 髭僧大師




後年、江戸町民にも馴染んだ


“髭僧寺”とは


修験の霊山三峯に隣り合う


大日向山 大陽禅寺のことである。



※上記、

『東海道中膝栗毛』を記した

十返舎一九による秩父珍道中記であり


この中の一節に、

大陽寺まで登る道での二人の掛け合いがある。



“さてさて、

この坂にはとんだ骨が折れる。

ここへあがらずとも

麓で拝んでおくべきだった。

そうすれば賽銭もいらない”



“いや、おまえさんは

どこへ行っても

賽銭あげたことすらなく

どうかすると箱のそとに

散らばってる銭を拾って、

勿体ないと箱に戻すフリをしながら、

袂にでも入れそうな漢だよ”



(このあと二人は、

札所一番から観音霊場をまわり

三十番法雲寺を参拝したあと、

荒川をのぼり、

大陽寺と三峯神社を回り、

小鹿野三十一番観音院へ巡る)





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また、これより古くは

修験派である役小角派は


秩父郡・比企郡の先達であるとして



毎年 四月十二日に

慈光三峯および秩父山(=武甲・両神・三峯)の


峯続きを苦修練行し


その後、六月に富士山に登り

七箇日夜修業し、慈光へ戻る


古来一体の修験霊地のルートが

観光巡礼案内として

紹介されている。




『秩父記行』にもあるように


大陽寺は、

“東女中高野”の寺であり


寺までの道は「比丘尼街道」


という地元の別称もあり



三峯修験の山伏らの伴侶である


女人や比丘尼たちの


集合地であったのだろう


(通常、山岳修験は女人禁制であった)


古くは、

“胎養寺”と当てたのも頷ける。





中世からその後の秩父域は、


浮世に背を向けた、世間から疎外された

中央集権から逃れてきた辺縁の


漂泊者らが肩を寄せ合うような


一大集会場のような巡礼地として機能したのであろう。



もっとも、女人高野として

女性が自由に参拝できることを

目当てにした輩も

はるか昔から居たであろうことを

作者である一九は

知っていたかもしれない。