大陽寺と三峯社に関する伝え(5)私考
大陽寺と畠山重忠にまつわる話に触れたが
史実に基づくものではない。
第一にまず、時系列が正確でない。
だが重忠伝説は奥多摩・奥武蔵に
広く多様に残されてきた。
たとえ時代をすり替えても
ある時点でまた
反芻し、反復する
そのような歴史の地下水脈を
掘り当てる様な‥‥
重忠は秩父氏(坂東八平氏の一つ)の一族であり、
妙見信仰と密接である
その背後に示唆されるは
武将の性格のみならず
製鉄民(砂鉄工)の側面であり、
しばしば彼らにまつわるものは
竜・蛇を信仰のシンボルとする
寺との伝説やエピソードは、
まるで実際とは異なるが
其れら要素が落とし込まれた物語として
考えられる。
この考えをさらにすすめば、
修験道山伏らの原型は
製鉄の宝の山を探す者らであった可能性がある。
特に磁鉄鉱(の風化した砂鉄)は、
製鉄の原材料になりうる。
大滝域には、
元来「大」と付く地名が多数あるが
(ex.大洞、大輪、大達原、大林、大血川)
【砂鉄を示す(丹青)】
→アオ→→オホ→→オオ
と変換していった名残かもしれない。
それら産鉄族が入り込んだ
地であることを示し
その先導役がいわゆる
三峰社伝でいうイヌ族“白狼”で
荒川を下る際に、
これと抗争をまじえたのが
猪ノ鼻地名伝承とも考えうる。
(そのような産鉄族と現地民との争いには
鬼人、巨人伝説が残されやすい。
また巣場区 聖岩 も
彼らにまつわる地名であろうか)
しかし、
古墳築造および大土木工といった
新しい文明が徐々に拓かれていけば
旧技術は置いていかれる
そこで、
山間部で山頂にたいして信仰を持ち
密教や呪術を形成し、
祈祷薬法など用いて民衆に溶け込む形で
崇められる対象となっていく
修験の起源であり
当然ながら身の処し方が時流世間に乗り切れなかった
日陰者や忍びの様な者らも一定数この地に居たはずである‥
大陽寺の正確な創建は不明ながら
平安 将門乱以前とすれば
当初は真言宗体系であったはずだ
三峰山 興雲寺(=明治以降、三峰神社と正式改名)の
威勢に押された形での
平安末期の一旦廃寺であり
その後、
鎌倉末期になり髭僧大師による
臨済寺院として改めて定められたが
現在の姿であろう。
修験山伏らによる
製鉄の向きと妙見信仰が合わさり
真言宗ひいては密教、山岳信仰と結びつき、
やがて中央集権的な経済へ展開する流れを
示しているようにおもふ。



