2026-05-11

“武州雲取小屋のはなし”


雲取山荘の前身である

【武州雲取小屋】は、


戦中・戦後に一階/二階建に拡張され

その後、“雲取山荘”と改称。



工事は1928(昭和三)年6〜7月

(実用化は8月上旬あたりか)



秩父鉄道(株)が新設を目的に

営林署と協議し、

主務は旅客課主任 吉田卯吉(浩堂)


(吉田/塚本閣治/町田立穂は

奥秩父の啓蒙先覚者トリオ)



工事請負は、大滝村大血川住民

渡場・沖 の両集落から



山中宗太郎(新宅,御札)◎

山中喜好(西ノ家)

山中馬吉(沖、地蔵堂)

山中正一(板屋ノ下)

岩田雛吉(木挽)

山中信義(当時18歳)


計6名。




大血川集落 旧山中家




建設費 百八十一円九十五銭(秩父鉄道録)


梅雨期の雨に苦労しながら約40日間

テント泊から取り掛かり

トタン屋根が完成後、屋根下泊となった。



初代 雲取小屋



小屋一棟+便所の構造

小屋は間口2.5間、奥行4間、屋根平トタン葺

柱は樅(もみ)、壁は唐檜の丸太横積み、

窓は片側2つずつ3尺四角式、

内部は両側床、薄縁、中央土間あり



登山者の増加と

原生林の保安(署による)と旅客対策(秩父鉄道による)から

こうして山小屋、指導標、地図製作に至ったわけである


小屋完成の翌々年5月に

影森駅ー三峰口駅の開通



丁度このあたりの時期から

奥秩父保勝会の菅原一氏を介して

蒔田生まれ 富田治三郎青年(呼称:鎌仙人)がシーズン中の小屋番人を務めることになる。



彼は登山者にきびしくも真っ当な忠告をする性格であったというが‥


シーズン中のある日

数時間後には大雨がくるから

即下山を促すも

これを聞き入れず縦走をえらんだ某登山者が

道中あまりの悪天候に耐えかね、

引返し疲労困憊で小屋に戻ってきたという。



富田仙人が第一声


「忠告を、聞き入れなかったな」


そして、もう一言


「だが、このくらいのことで

山をきらいになっちゃいけねえ」



囲炉裏に大火を焚いて、

登山者のずぶ濡れの衣服を乾かした。




彼らは、自然に限りなく近い人間。


否もう、山と一体だったのだろう。




2026-05-10

“世にも奇妙な” 大血川 21


大陽寺と三峯社に関する伝え(5)私考


(2)において、

大陽寺と畠山重忠にまつわる話に触れたが


史実に基づくものではない。



第一にまず、時系列が正確でない。



だが重忠伝説は奥多摩・奥武蔵に

広く多様に残されてきた。



たとえ時代をすり替えても

ある時点でまた

反芻し、反復する


そのような歴史の地下水脈を

掘り当てる様な‥‥







周知のように、

重忠は秩父氏(坂東八平氏の一つ)の一族であり、

妙見信仰と密接である



その背後に示唆されるは

武将の性格のみならず

製鉄民(砂鉄工)の側面であり、


しばしば彼らにまつわるものは

竜・蛇を信仰のシンボルとする



寺との伝説やエピソードは、

まるで実際とは異なるが

其れら要素が落とし込まれた物語として

考えられる。



この考えをさらにすすめば、

修験道山伏らの原型は

製鉄の宝の山を探す者らであった可能性がある。



特に磁鉄鉱(の風化した砂鉄)は、

製鉄の原材料になりうる。



大滝域には、

元来「大」と付く地名が多数あるが

(ex.大洞、大輪、大達原、大林、大血川)



【砂鉄を示す(丹青)】

→アオ→→オホ→→オオ  

と変換していった名残かもしれない。


それら産鉄族が入り込んだ

地であることを示し







その先導役がいわゆる

三峰社伝でいうイヌ族“白狼”で



荒川を下る際に、

これと抗争をまじえたのが

猪ノ鼻地名伝承とも考えうる。



(そのような産鉄族と現地民との争いには

鬼人、巨人伝説が残されやすい。


また巣場区 聖岩 も

彼らにまつわる地名であろうか)



しかし、

古墳築造および大土木工といった

新しい文明が徐々に拓かれていけば

旧技術は置いていかれる



そこで、

山間部で山頂にたいして信仰を持ち

密教や呪術を形成し、

祈祷薬法など用いて民衆に溶け込む形で

崇められる対象となっていく



修験の起源であり

当然ながら身の処し方が時流世間に乗り切れなかった

日陰者や忍びの様な者らも一定数この地に居たはずである‥







大陽寺の正確な創建は不明ながら

平安 将門乱以前とすれば

当初は真言宗体系であったはずだ



三峰山 興雲寺(=明治以降、三峰神社と正式改名)の

威勢に押された形での

平安末期の一旦廃寺であり


その後、

鎌倉末期になり髭僧大師による

臨済寺院として改めて定められたが

現在の姿であろう。



修験山伏らによる

製鉄の向きと妙見信仰が合わさり

真言宗ひいては密教、山岳信仰と結びつき、


やがて中央集権的な経済へ展開する流れを

示しているようにおもふ。