秩父全体の象徴
山麓の地域社会を制すことが
すなわち “神体山”を制すに均しく
山の祭祀を指揮する者が権力者
であったのだろう
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広重画 武蔵秩父山中(『諸国名所百景』より)
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その山谷をめぐる信仰形態の構造はこうだ
《 川・谷ー集落ー村落ー山ー鎮守 》
各々、谷に沿って
集落が形成されれば
散在する集落を統一する川がある
これをさかのぼる処に
鎮守(小)を置き
その集合が
やがて村落となるとき
山上に、一鎮守(大)
すなわち 神社を祀る
つまり
山の神= 水(川)神 を意味する
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| 水源 |
各集落の在り方は
【主流ー支流ー支々流】に沿う。
・主流(荒川)に合す支流
(ex.赤平、横瀬、中津、安谷、大血川)
・支流に合す支々流
(ex.吉田、芦ヶ久保、小森、定峰、薄川、生川)
荒川 約160筋は
盆地の血管となっている
盆地の内側は傾斜がつき
山が重なり合う
山襞が複雑に入り組む
暮らしを根付かせるには
山頂より低く
谷底より高く
日照にすぐれ
雨風をしのぎ
湧水が引ける
おのずとそのような場となる。
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| 大血川集落の祭り |
この地の求心性
此処に暮らす人々の
素朴な心や霊性は
見渡す限り聳える山の一点に
すなわち独立峰にあったと言える
便宜的に話を一般化したい。
史実は、
この地方に伝わる数々説話と
全く異なる。
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| 大血川谷の“将門岩” |
たとえば、将門公の最期の地は
茨城 岩井辺りであろう。
しかし、なぜ伝説は
彼を最終的に城峯山まで逃がし
広く行き渡らせたのか?
これらの土着信仰は
山岳修験者が持ち込んだ諸文化に
共感した秩父人のしるしであろうか‥
戦乱の残党もこの地に
多く入り混じったことだろう
(仮に)源氏を平氏と称し、
あるいは足利と称えても、
底流するものはおなじ
“頼りにする”という口実で
山をよく知る修験道の存在があった
天狗に鼻先が伸びるが如く
山中の苦行と禁欲性に耐えたのち
自然の霊的存在に近づくことができる
〈験力〉をもつ者として‥
祈祷、説法、祭文語り、神楽
浪曲、娯楽
薬草、薬品
版木、護符
寺子屋(読み書き、行儀作法)
…等
村とむらびとの
災いや迷いを
祓う役割が居たのだろう
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谷があれば
水脈に沿い
集落ができ
やがて村落が現れる
その水源地まで見上げると
山の頂きがあり
そこに鎮守(社)を構える。
たとえば伝説上
互いにこの地方でせめぎ合ったとされる
城峯神社の平将門も
椋神社の藤原秀郷も
山の鎮守(社)をめぐる
抗争のしるし
だったのかもしれない…
土地によって
流布が
多種多様なのはなぜか
この流域一帯には、
(先述の桔梗をめぐり)
聯妃の滞在した跡だという
大達原 「塚八幡社」
また同地域
49人の妃を祀った「四十九前の宮」
さらに川を下り
小鹿野町域の「十二御前社」
栃谷村字立石の「御前社」‥‥etc.
上流へ遡るにつれ、
奇妙にも祀られる数が
増えていくは
伝播の跡だろうか
これには中世初期から
修験道、修験比丘尼(女)といった
山岳信仰者らの往来が
盛んだったことから、
説法唱導によるもの
とも考えられる。
このような漂泊者が
秩父山塊の山並の明暗に
みずからの内なる痛みを重ね
屈折し入り組んだ情念を、
伝承に乗せたのではなかろうか。
生はさまよいであり
(誰にもやがていつか訪れる死の日までの)
持続的な抵抗
あるいは、回り道であろう
その循環運動は、
《 dérive 漂流 》である
‥‥‥大血川のように、
東の方(都方面側)から西方を流れる川を
“逆さ川”と云う。
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| 大滝域の逆さ川 |
このような古戦場のなごり
あるいは、敗亡の命
桔梗の悲劇と将門の勇敢を
称えるに
曰く付きな土地として
霊を慰むに
格好の地であったのかもしれない