大陽寺と三峯社に関する伝え(1)
神仏習合の時代
特に三峯権限と呼ばれた頃の名残
大血川大日向山〜霧藻ヶ峰へ通ず
地蔵峠には
大陽寺道指導標があり
地蔵石が残されてる。
地蔵体にかかる赤布には
「左大日向山 天保十三年、願主平蔵」とあったという。
大日向山(大陽寺方)のみ
表記されているのは、
単純に登山者の数によるものだっただろうか?
両者(=大陽寺と三峯社)に
何か連関はあるのだろうか。
現三峯神社内に御井神社があるが
![]() |
| 御井神社 |
『三峰大観』によれば、
「鐘楼前面の小径を東北に進み、
檜杉の晝(昼)
尚ほ暗き杜下坂を下ること
約四丁にして、御井神社がある
祠は石上に安置され、
明治十五年に再建された
祭神は水速女命にて、
祠前に貯水場がある明治十七年
水上蒸気汽缶を設備し、
二百五十余間の水道鉄管を利用し、
社務所に輸送して
日常の飲用、炊爨雑用に供したが、
冬秋の候となれば
鉄管が氷結して用をなさないので、
人夫の肩に依って
運び上げて居った」
…いつの時代も変わらぬ
奥秩父域らしい厳寒期の様相である。
また、
“ この山に乏しきものは井水にて、
南澗に下ること八町ばかりにして
清水あれば、丁夫八九人をして、
朝より夕にいたるまで負担せしめたり、
仁王門の前、古池と云へる所あり、
往古はここに水ありしを
山の神 大日向の髭僧大師 に盟ひて
貽りたまひしより、
涸れたるよしを云傳へり。”
とある。
つまり実際に明治初期には
運搬役を要したほどであり
元来、三峰社に水が乏しきは
太古に神が沢を大陽寺に
譲り渡したからだと述べる。
この伝えは、
大陽寺側にも残されている。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
往時大陽寺の参拝客が非常に多く賑わった。
他方、三峯山はまことに少なく
あるとき三峯神が
大陽寺に水を与えてやるから、
御客をよこせと申し込んだという。
その後、参拝者は
まったく三峯山に移ったのだそうな。
(三峯山随神門より東南にある
大池の水であり、その跡凹地として残されている)
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
この両神々の
忖度交渉事は
字義文脈のとおり
水源確保をめぐる伝説か
またあるいは‥‥
(井戸水に象徴されうる)
女人をめぐるものであったか
それは、ご想像にお任せしたい。
