①部落・村落の山を差し
②男女の隔てなく
③飲食し、声(音)を発する
④元日 春・秋の二期性をとる
‥‥さて、大血川集落から
山道を上ると、大陽寺へ着く
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| 『新編武蔵風土記』より 大陽寺の図 |
江戸期(文化〜天保)において
十返舎一九『秩父順礼道中記』(※)に
大陽寺について記される
“ひげそう”とは、髭僧大師をさし‥‥
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| 十返舎一九『秩父順礼道中記』より |
さかのぼること鎌倉末期に
この開基は、
日原より峠を越え
ここに辿り着いたそうな。
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| 大陽寺 髭僧大師 |
後年、江戸町民にも馴染んだ
“髭僧寺”とは
修験の霊山三峯に隣り合う
大日向山 大陽禅寺のことである。
※上記、
『東海道中膝栗毛』を記した
十返舎一九による秩父珍道中記であり
この中の一節に、
大陽寺まで登る道での二人の掛け合いがある。
“さてさて、
この坂にはとんだ骨が折れる。
ここへあがらずとも
麓で拝んでおくべきだった。
そうすれば賽銭もいらない”
“いや、おまえさんは
どこへ行っても
賽銭あげたことすらなく
どうかすると箱のそとに
散らばってる銭を拾って、
勿体ないと箱に戻すフリをしながら、
袂にでも入れそうな漢だよ”
(このあと二人は、
札所一番から観音霊場をまわり
三十番法雲寺を参拝したあと、
荒川をのぼり、
大陽寺と三峯神社を回り、
小鹿野三十一番観音院へ巡る)
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また、これより古くは
修験派である役小角派は
秩父郡・比企郡の先達であるとして
毎年 四月十二日に
慈光三峯および秩父山(=武甲・両神・三峯)の
峯続きを苦修練行し
その後、六月に富士山に登り
七箇日夜修業し、慈光へ戻る
古来一体の修験霊地のルートが
観光巡礼案内として
紹介されている。
『秩父記行』にもあるように
大陽寺は、
“東女中高野”の寺であり
寺までの道は「比丘尼街道」
という地元の別称もあり
三峯修験の山伏らの伴侶である
女人や比丘尼たちの
集合地であったのだろう
(通常、山岳修験は女人禁制であった)
古くは、
“胎養寺”と当てたのも頷ける。
中世からその後の秩父域は、
浮世に背を向けた、世間から疎外された
中央集権から逃れてきた辺縁の
漂泊者らが肩を寄せ合うような
一大集会場のような巡礼地として機能したのであろう。
もっとも、女人高野として
女性が自由に参拝できることを
目当てにした輩も
はるか昔から居たであろうことを
作者である一九は
知っていたかもしれない。





